紀元前5世紀には民主政治が発達するとともに
紀元前5世紀には民主政治が発達するとともに、そのもとで文化の諸領域が世俗化していった。これに反動するかのように知識人らは懐古趣味と非現実的抽象化の傾向に陥った。前世紀に続く悲劇の隆盛は、詩と音楽の関係に様々な論争を呼び「芸術論」を生み出した。これにより、音楽は伝来の制約や規範、秩序から逸脱していくことになる。例えば、キタラーの多弦化、多弦ハープの流行と音階の混用、キタラー伴奏歌曲とアウロス伴奏歌曲の無境界化などを引き起こし、ついにはパンアテナイア祭においてサチュロス劇が上演されたり、リラを持ったヘラクレスまで登場することとなった。一方で、音楽が「演奏」から「鑑賞」の対象へと変化していく。また、プラトンやアリストテレスはその倫理学において、教育論や国家論の観点から音楽が規制されるべきだと説いた。ペロポネソス戦争を経てその後マケドニアが支配するようになると、ギリシャのポリスは衰退し地中海沿岸の植民地へ人口が流出するとともに、音楽理論やその用語がローマ文化圏(西ヨーロッパ)へ伝播していった。
古代ローマの時代 [編集]
古代ローマでは併合したギリシアの音楽の影響を受けていたとされるが、楽譜は伝わっておらず、実態は不明である。
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初期キリスト教の音楽 [編集]
古代の末期に見られた初期キリスト教音楽(原始キリスト教)の姿も不明である。新約聖書の「マタイによる福音書」には、キリストは最後の晩餐の後に、弟子達ともに歌を歌ったという記述がみられる。キリスト教がユダヤ教をもとに成立したことから、初期キリスト教音楽もユダヤ教の聖歌がもとにあるとの説が支配的であったが、むしろ独自性を示すために異なった礼拝があったとの考えもある。現存する最古(紀元280年)のキリスト教(東方諸教会)の聖歌とされるのはオクシリンコス・パピルスに含まれていた「三位一体の聖歌」(オクシリンコスの賛歌)がギリシア記譜法で記されたものである。3?5世紀になると、アルメニア、シリア、エジプト、エチオピア、ビザンツ帝国で、地方の特色と結びついた聖歌ができた。これらは、東方教会聖歌として、それぞれアルメニア聖歌、シリア聖歌、コプト聖歌、アビシニア聖歌、ビザンティン聖歌という形で現在も歌われている。しかし、現在のものが、当時の姿を正しく伝えているとは考えられない。これらの聖歌は、アラブやトルコなどの支配的な民族の影響で1500年以上もの間に大きく変化したと考えられる。恐らくは全員で同じ聖歌を斉唱している間に、歌いやすい音名に移動したのであろう。
3世紀末頃には都市の贅沢を離れ、荒野で過酷な貧困生活を送る修行を通じて信仰を実践しようという修道院運動が盛んになった。その絶え間ない祈祷の際に、全詩篇を順番に朗唱する「詩篇連唱」の習慣が確立した。また、4世紀のエジプトにおいては、修道院の朝夕2回の聖務日課が整備され、宗教的瞑想の前提として詩篇唱が機能した。その後、教会の大聖堂内でも聖務日課の際に詩篇唱が行われるようになり、修道士(女)が演奏のために教会へ赴いた。6世紀までには教会における1日8回の聖務日課(時課)が制度化され、その中で修道士(女)が詩篇唱を聖職者は祈祷を受け持つよう、その職能によって分業化された。一方、平信徒ら(一般会衆)にとっては平日にあっては詩篇唱をただ聴くのみであったが、日曜日はともに歌うこともあったようだ。かつて、荒野の中で歌われた素朴で単純な詩篇唱は、聖堂の中で次第に旋律性豊かで甘美なものへと変化していき、熱狂的な詩篇唱ブームにつながった。